院長のブログ

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院長とK君

2014年04月16日

院長の高校時代の友達であるK君が福知山駅に午前11:46分に降りたった。
頭はややはげて少し老けたようだ。

私と事務長(妻)が、改札口で待ってしばらく階段を降りてきた。
「K君やっ 12年ぶり」
私とK君は福知山の料亭の「だるま」に行き二人きりで会食す。

「だるま」は福知山の医師会がよく利用する所。
会食が終われば妻の運転でクリニックへと急ぐ。
約40分程でクリニックに付く。

K君いわく「思った通りやなぁ」とため息。
「何が思い通りや?」と私が聞くと
「木村はぜんぜん学生時代から変わらん」とK君。

K君は阪大法学部で大和銀行、大和総研と大和育ちで退職し65歳になる。
いつも心疾患を持ちながらアルコールをやらず
そんなK君が40年サラリーマンをやってきて思った事。

・ギブアンドテイクの世界
・自分から進んでやらなければ何も始まらない。
・ゴールをしたければまず自分から行動を起こす。

そしてK君は言う。
「真実は常に不変であるに同意。ある時にはそれがフォーカスとなるが、
その後他のフォーカスが真実になるという世の不変その道理に同意。」

まさにその通りだ。

クリニックから福地山駅への帰り際、 
3人で天橋立ビューランドへ立ち寄り写真を撮った。

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院長はガリバー

2014年04月02日

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私はこのクリニックを紹介されたのも偶然であり、
また、大学の同窓生の医院を紹介されたのも偶然である。

しかし、その距離は近畿中央部の堺市から日本海沿岸まで、実に車でノンストップで3時間位かかる。
山を越え、トンネルを頻回に越え、川岸や橋を渡り、その間、インターチェンジが6ヶ所及び7箇所ある。
阪神高速から中国道、さらに舞鶴道。その距離ははかり知れない。

そして金曜日の夜6時に外来診療が終わり、北新地、心斎橋、堂島、京橋、ミナミと帰りがたお店に行く。
つまりグルメのお店である。度々、俳優・タレント・野球選手・医師等が来るお店。
またこの店が終わって実家に帰宅しそのまま入眠する。

こんなハードな生活をしていると、元病院事務長さんが
「先生、お体に気をつけて。くれぐれも」
それもそのはず。この8月には前立腺のレーザー手術が待っている。
家内もこの頃、頻回にお店に行く事に激怒している。

院長は常に可能性にチャレンジするガリバーである。

院長の実家

2014年03月25日

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私の実家は堺市堺区にあり、周りは金物業者や自転車業者などが立つ所。
中央の大通筋(紀州街道)のど真ん中を阪堺線、言わばちんちん電車が走り、
それを取り囲むように銀行や生命保険会社があり、
その地域の喫茶店やスナックに周りの住民が屯している。
そこでは「これはナンボ」の世界。
昔の大河ドラマ「黄金の日々」に画かれた地域である。

院長と往診Ⅱ

2014年03月07日

昨年8月頃、ところは宮津湾の伊根への国道。往診への道。

すべて、すべて波また波の宮津湾。
遠くに日置のマンションの高いビルディングと
その先に岬の高台に宮津ロイヤルホテルと煙突。
国道は湾内の巡り道に車は進む。

昼の2時頃、突然の雷とともに、フロントガラスに叩きつける雨。
車のワイパーのうねる音がヒーヒーと
サイドの車のボディを左右から噴水のように雨が叩きつけられ車は進む。

また空が光った。
「ゴーゴー」とまるで洪水の様に国道は水浸し。
浅い川の中の如く道を車は進む。

また空が光った。
「ゴーゴー」とサイドのボディに水が「ドンドン」と打ち付けてくる。

また数回にわたって空が光りしばらくして
「ゴーゴー」と空に電光が光る。

車はなおも進み、日置を過ぎて伊根町へ。
伊根の本庄から車は左に曲がって和やかな老夫婦が住む民家へとつづく。

車のナビは「道なりです」と告げる。
車の中のテレビの野球中継のアナウンサーはひとたび大きな声。
「あっ、今ピッチャー交代を告げました」と。

ゴーゴーたる車の内と外の音を聴きながら
伊根町の湾岸を越え本庄をさらに民家へと走る。

往診の時間、民家に駆け込むのに1時間20分に達する。

すべてすべて往診中の1コマである。

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院長と旅行

2014年02月18日

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私はもう一つの夢、それは7日間位の船旅。
すなわち豪華客船に乗ってゆったりと一日過ごす。

しかし、私は今、クリニックは24時間体制で往診している身。
この実現にはまず問題がある。

「先生、すぐ来てください。母親が急に熱がでて変な事を言うのですが!」

こんな毎日を過ごしている私だが、客船の旅となるとやはり残念。
24時間365日、在宅診療支援診療所の宿命である。

とにかく働け働け!

そういう現実があるので、まず船の旅は無理である。

「先生、その旅はあきらめてください」とMRさん。

2006年にこの制度ができて、かかりつけ医は外来診療と訪問診療のいずれもをする事が整備されつつある。

船旅の中のパーティやゆったりとしたプールおよびショッピング、
その他旅行客との交流も多々ある旅だが…。

私は「あきらめきれない!!」

非常勤医師やパート医師に来てもらう、それも一案である。
旅の人と人とのひと事ひと事がいつまでも心の泉が如き、生活の源泉であり明日へ教訓である。

働け働け。頑張ります。

 

 

院長と宴

2014年02月06日

私の幼き頃、場所は京都府宇治市宇治川。
宇治川の川床、舟遊びに同乗した。
真赤なたいまつが数本、すなわち鵜飼である。

4~5隻の舟がゆらゆらと川を下り、屋形舟の中で父と母が祖父(宇治市長)と親戚、
それに助役、警察署長の中、その真中では鮎のすき焼の踊り食いがある。
漁夫の方が鵜から鮎を取り上げるや、そのすき鍋に放り込む。
私はまだ2歳の頃であったが、その光景を見て

「はやく、このような大人になりたい!」
「はやく宴を楽しみたい!!」

と子供心に思った。
舟は4、5隻。時々接近しては又離れる。

あれから大人になって、父も頻回に酒の宴につきあわされた。
父は開業していた弟にプロパに連れて行かれ、
白浜や伊良湖で大阪医大仁泉会のメンバーとともに会食。
思わず微笑む父の顔が瞼に新しい。

私が開業医になってからも、家族、MRやコンサルタント、
病院でお世話になった事務員達と北新地や京橋、堂島あたり、ミナミで会食す。
会合の度に思う事は、あの頃の思い出。

酒が入ったメンバー達の笑い声、そしてためいき。
すべてすべて宴にぶつける如く話がはずむ。
人と人との交流の場、それが宴である。

 

ホテルニューオータニ大阪にて「祇園 さゝ木」のフェアに招待された。

ホテルニューオータニ大阪にて「祇園 さゝ木」のフェアに招待された。

院長の友人、A君 B君

2014年01月28日

A君は頚部筋肉腫と診断され、浜松医大で手術し、肉腫の全てを切除した。
その間、A君の奥さんからの電話で
「主人は一人で病室です。携帯電話番号を言いますので、暇があったら電話してあげてください。」と。

A君は静岡市清水区で皮膚科を開業している。
常に電話では自分が皮膚科専門医であることと、
医院が盛業で常に160~170人の患者をうけもっていることを自慢している。
A君の子供は3人とも医学部医学科に入学し、現在皮膚科2人、麻酔科1人の医師で、
いずれも専門医を目指し励んでいる。
一時、特養ホームも経営しようかとする程の経営自慢で
全国各地の開業医の実態や状況を把握している。

A君「おまえ知ってるやろ?あの内科のM君が、今大阪の近くで
月亭八方みたいに大阪弁バリバリで患者を診療しているぜ!はやってるぜ!」

ところで和歌山県で同じく皮膚科を開業しているB君は、
A君とは対照的に、専門医を持たずパート事務員1人のこじんまりとした医院を経営している。

土曜日の夜になれば大阪に出て来て、碁会所で碁を打ちシティホテルに泊まる。
その夜には囲碁仲間だけでなく、常に7~8人の医師仲間から電話がかかってくるほど
友人が多く誰からも愛されている。

B君「おい木村よ!近頃元気やなぁ!!
もう65歳になったら友人たちも時々死ぬぜ?木村も健康に注意せぇよ!
なんぼお金があっても、常に話し合える友人がおるのが一番いい。」

A君、B君とも、その考え方、生活状態、ポリシーには互いに譲らない頑固さがある。

院長と医学部入試

2014年01月21日

医学部入試は、はたして難しくなったのか?易しくなったのか?

私の入試時は、大阪市大医学部医学科60名が定員だった。
今は90名。しかし大学によっては、AO入試や地域枠入試もある。
市大医学部医学科は、私の当時、出来る受験生も、いわば出来の悪い医者そのものに傾倒した
一種の成り上がり者(失礼!!)も含まれていた。
よって入学者60名は、公立、国立、私立の各有名校に数名、まんべんなく入学していた。

つまり学校差よりは、個人の実力によるものが大きかった。
中にはせっかく医学部入学しても、東大に逃げたもの、また、市大ではがまんしきれずに
東大理三に入学したものもいた。

今は定員が90名。しかも各個人だいたい国立、私立の進学校のみで占めている。
つまり、作られた医大生。全く行き場を無くし、くずれ医師になってもおかしくない。
医学部の質の低下が叫ばれる今日、果たして本物の医師として世の中に通用する立派な医業研究スキルを持ちえるかというと疑問である。

団塊の世代の医師は、65歳に達するが、まだ健在で実力も充分あり、
まだまだ年金生活に入る程老いぼれてはいない。健康であれば、80歳まで。

我々の入試の厳しさは今の生徒には解らないはずだ。
ちなみに私は大阪市大医学部医学科を19番で現役合格している。

与謝野町と堺市

2014年01月10日

私は、京都府宇治市で生まれたが、ほとんどは父の開業地である堺市堺区で育った。
小学校、中学校、高校と堺市内の公立学校に入学し、その地で泉州の布団太鼓とともに育った。
その堺市の駿河屋という和菓子屋に生まれたのは、俳人、与謝野晶子である。その後、晶子は鉄幹と結婚するが、鉄幹以上に晶子の俳句は値が高かった。江山文庫に晶子のいろいろな業績が眠っている。

私は、58歳で同窓生である浅野内科医院を継いだ。堺から与謝野町に移住してきた。
病院を初めて見て、これからの開業生活が始まるのだという妙に身に迫る緊張感を覚えた。

平成19年6月15日金曜日の初日、外来患者49人でスタートした。
その後、在宅医療と外来診療とを両立させて今日まできた。周りの地域の人々は、我々を快く迎えてくれた。生活は、年金生活者もかなり多く、厳しい現実があった。今まであった田舎祭りの子ども歌舞伎も中止になった。

ちりめん街道

与謝野町のちりめん街道

毎週金曜日に堺市に帰るが、特に嵐に遭遇し列車が動かないこともあった。昔懐かしい着物のミュージアムや大名行列があり、マラソンが盛んで大江山がどんとそびえている。川は豊富に水があり、6月頃から鮎が捕れる。ちりめんの里の風情は、昔を思い出す大正、昭和の薫りがした。人々は、車に乗ってクリニックを訪れ、病気だけでなく生活のこと、孫のこと、嫁のことを言って帰る。

堺市

堺市のちんちん電車

与謝野町は30%以上が65歳以上であり、昔のちりめんの商人達は80歳を超えて介護生活に入っている。一方、堺はビルディングがたちのぼり、銀行、生命保険会社やマンションのラッシュで生活はめざましく変貌している。人口は百万に届き、普段はゴミゴミしている。また、水は決して美味しくない。しかし、店はいたるところにあり、子どもも多い。

私は、この堺市がいやだから、ここ与謝野町に来たわけではないが、堺市には何か人々のどろどろした苦難と、生活のむずかしさを感ずる。
大学は阿倍野区の大阪市大へちんちん電車で上町大地を通った音が懐かしい。

京都保険医新聞 平成26年1月5日 第2880号掲載

hokeni

院長と阪神タイガース

2013年12月26日

hanshin私はもともと育ちが大阪で、阪神タイガースのファンである。
昔、小学校2年生の頃に父の医院でとっていたスポーツ新聞をいつも見ていた。
そのスポーツ新聞を子供ながらどきどきして愛読していた。

「昨日、阪神勝ったかなぁ?」と新聞にかじりついた。
「あっ!!また負けてる!!4対2で国鉄スワローズの勝ちや!」
「なんて事だろう、これで阪神3連敗。まったくいつまで阪神は負けるんやろうか!」
「これじゃ今シーズンも全く優勝はとても無理や!」

子供ごころにまるで自分の成績がオール3のような錯覚であった。
錯覚というよりもオール3以下の落胆ぶりだったことを覚えている。

64年間も生きてきて阪神はリーグ優勝たったの5回。
日本一はたったの1回。
これでは阪神に見切りをつけるのも当然。
この頃は開業医生活が忙しく、毎日の点数集計の日々と診療のミステイクが気になって、
とても阪神どころではない。

ややくずれた運転手のBさん。
「先生、スポーツ新聞で阪神の結果が気にならない?」と私に尋ねる。
私は「ぜんぜん」と。

事実この頃は阪神の結果について全く意識下には入らない。
全く気にしていないし、負けたといっても落胆はしない。

「もう私は阪神卒業や!!おめでとう!!!」

そう自分で自分の心にひそかにつぶやく今日この頃である。

京都府与謝郡与謝野町 内科・消化器内科・小児科・心療内科  木村内科クリニック

京都府与謝郡与謝野町 内科・消化器内科・小児科・心療内科  木村内科クリニック

木村内科クリニック

全日本病院協会 準会員施設
日本病院総合診療医学会認定施設
地域包括医療・ケア認定施設

診療科目

内科、消化器内科、小児科、心療内科、
精神科、リハビリテーション科

所在地

〒629-2404
京都府与謝郡与謝野町後野
643-7

TEL:0772-43-2134
FAX: 0772-43-2134

  • 北丹後鉄道「野田川駅」より
    車で約10分

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