院長の母
2013年10月15日
私の母の父である山崎平次が町長時代、
京都府立医大病院に入院した時に
担当医であったのが私の父の木村浩である。
「私の娘をもらってください」そう病床から父に声をかけた。
その後、母は父と結婚した。
母の言葉はいつも
「どんな嫌な事があっても物は捉えようです」
「今現在、持っている物を大事にせよ」
「偉くなる人程、頭(こうべ)を垂れる」
「常に謙虚でいなさい」
と私に語りかけた。
死ぬ間際まで「進歩を忘れない様に」と言っていた。
一つ一つの言葉が今も私の心に生きている。
院長と犬
2013年09月06日
私が小学校3年生にあがる頃にメスのシェパードの子犬が私の実家に来た。
それを兄貴は飼い、中学校から高校に行く頃まで、外のおりの中で飼っていた。
その後3ビキの、雑種とブラックタンとレッドのミニチュアダックスを飼っている。
その犬たちの主人は家内と次女で、私にはなぜか同類あつかいである。
院長の兄弟
2013年07月19日
私の兄弟は3人。3人とも男である。
兄は天王寺高校から阪大医学部へ。現在、小浜市医師会会長で小浜市内で開業している。
弟は堺市桃山台で土地家屋調査士として開業している。
3人ともめったに一緒に出会って話しをすることはない。
院長とFacebook
2013年04月11日
私はこの最近、あるMR氏のおかげでFacebookを始めた。
友達は80人以上にのぼるが、タレント、国会議員、ミスコン受賞者や一般人と幅広い。
いづれも自己アピールの為、次々と写真や話題が満載である。
院長のライバル
2013年03月09日
私の高校3年時、宇治市の親戚の所に2つ半年上のいとこ(66歳)のもとに一緒に受験勉強の為に出かけた。いとこは2年浪人していた為、私が大阪市立大学へ入学した同じ年に京都大理学部に入学し、その後卒業と同時に三和銀行へ。
ゴルフとともに友人は数多く作る社交派で、京都支店長になりその後、三菱東京UFJ銀行の本部部長役員となり、銀行の融資係をしていた為、大京(株)社長、さらにサービス保険社長となり、さらにその下の会社の社長になっている。
いわば私にとって、どうしても負けられない永遠のライバルである。
院長と往診
2013年01月09日
私の往診は父の開業の手伝いから始まる。
昭和58年頃、70歳の老人が嘔吐して、気分不良を訴えた時に往診した。
父のバッグからノバミン1アンプルを筋肉注射して帰った。
その後、枚方市の佐藤病院で水曜日のみ午前中12時頃まで、
15名程の往診患者をまわって往診した。3年間続いた。
その後、このスキルをいかし開業後、在宅主治医として50名程往診している。
ちなみに2006年から在宅支援診療の制度ができた。
院長と与謝野町
2012年09月04日
院長の高校の先輩には、俳人 与謝野晶子がいる。
与謝野町の金屋という所に、晶子の写真や詩集が残っており、
与謝野町一帯は、与謝野家の人々がまだ少しいらっしゃる。
また、女性では先輩にオノ・ヨーコ、後輩には沢口靖子などがいる。
まだ加悦には、昔ながらのちりめん街道などがあり、
院長の第二のふるさとである。
院長と税理士
2012年06月18日
開業後の税理士さんは、前院長からのひきつぎの税理士さんで、なにかと前院長と比較され、やりにくかった。1年半後、税理士さんを換えてからは、常に電話で対応してくれた為に、高い報酬も気にならなかった。その後クリニック軌道に乗った。
院長と洛南高校
2012年06月18日
私は、中学卒業後私立高校として洛南高校を併願志望していた。
合格後、中学の校長あてに、公立高校を選ぶよりも我が高校へとの招待状が洛南高校から届いた。当時同校は、全国から中学生を選んで有名私立高校へと飛躍する時期だった。
院長と名刺
2012年06月18日
私は、大学病院時代から常に名刺を作ってきた。ほとんどが階式を主とした名刺で何のおもしろみもないものだった。開業するようになって写真入りの名刺を 作ったが、そのほとんどが気に入らないもので、最近作った名刺は、写真入りの政治家のような名刺である。どこか、しっくり気に入った名刺が作れないか?と 考えている。